あの夢の続き

まだ眠いの?

おとうさんの作文!の巻

我が家には内風呂がなかったため銭湯へ通っていた。
阿含は父親と銭湯へよく行っていた。
父はいつも5時ごろに帰ってきて、僕を銭湯へ連れていってくれた。思えば阿含が小さい頃にはすでに朝早く仕事へ出かけ、5時ごろには帰宅していた。ずいぶん早い帰りである。子どもを風呂に入れるため早く帰れる仕事のやり方をしていたのであろうか?

翻って僕はというと、あまり外に遊びに出る子供でもなく、父が帰ってくるのを楽しみに家で待っているような生活であった。父が帰ってくると、アパートの前に自転車を停めるのだがそのブレーキの音や父の歩行音などで帰宅を察知できた。
おとうさんかえってきた!
と嬉しい気持ちになって窓を開けて
おかえり!などと言っていたように思う。

さて、ある日いつものように銭湯へ行き、その帰り道に鳩が死んでいるのを発見した。
父が
「可愛そうだからどこかへ埋めてやろう」
とどこかへ埋葬していた。

その時小学生だった阿含は、学校で「お父さんについての作文を書きましょう」という課題が出た。
直近で思い出せた事柄は鳩の件であり、そのことを主題に作文を書いたのであった。

作文の内容はこんな感じ。
おとうさんはみちでしんでいたハトをうめてあげてやさしいです。ぼくもそういうおとなになりたいです、というようなもの。

作文が書けてから、学校でみんなが自分の作文を読むこととなった。僕は銭湯の帰りに父が鳩を発見し埋葬したというストーリーを読んだ。
「ぼくはおふろのかえりにおとうさんとハトを見つけてー」のくだりでクラスがざわざわした。
おふろのかえりって?
どこにかえるの?
すると先生がいった。
「いえにおふろがないおうちもありまーす」と。
こども心にもそのとき初めて、僕は、自宅にお風呂が無いことが、みんなが疑問に思うようなことなのだと、みんながすぐに認識できないようなことなのだと、恥ずかしいというか、少なくとも多数派ではない家庭なのだということを認識したのであった。


おとうさんと銭湯へ行くのは好きだった。
自転車の後ろに乗せてくれて2人乗りでお風呂へ連れていってくれたものだ。
銭湯の前にはパン屋があり、なぜかそこでたこ焼きも売っていてそのたこ焼きを買ったり、銭湯の隣にあるミニスーパーではいつもビックリマンチョコを買ってもらったりした。

帰り道の夕方には夏になるとコウモリが飛んでいたことを覚えている。季節の移ろいで日の長さが違うことも感じた。夕日がきれいだな、いつもぼくはしあわせだなと常に感じていたのもこのころである。

銭湯からの帰り道、自転車の後ろに乗っていたぼくは自宅が近づくと後ろから降りて、自転車の荷台を押してあげた。お父さんがペダルをこがなくてもいいように。楽ができるように。早く進めるように。父は「そんなに押さなくていいよ」と言いながら嬉しそうだったように覚えている。そして自宅に到着すると母が夕飯を準備してくれていた。
風呂のない1kのアパートであった。トイレも部屋内には無く共同トイレであった。それでも毎日が楽しかったし何不自由なく育ったと認識している。すき焼きもきちんと牛肉だったし焼肉も食べていた。父は寿司が好きでたまに出前の寿司を取るのが好きだったようだ。外食はあまりした記憶がない。しかしごはんは毎日おいしかった。母が作ってくれたミロは甘くてとってもおいしかった。お腹が空いているのにごはんが食べられないということなんて無かった。
なにも不満はなかった。
みんな楽しく暮らしていたし、我が家が貧乏だなんて考えたこともなかった。

なのに、お風呂が家に無いことが、こんなにも僕の心に影を落とすことになるとは思わなかった。少年の心に落ちたその影は、長く僕の記憶に残った。お風呂の話は学校ではあまりしなくなった。中学、高校になっても同様であり、僕が自宅に風呂が無いことを打ち明けるのは特に心を開い人にだけだった。人に開示するのは恥ずかしい事柄のひとつであった。

これを完全に払拭することができたのは30才前後のことであった。